パソコン・インターネット

2011.01.26

慈善家ビル・ゲイツへの敬意と違和感

 Facebookのザッカーバーグが日本でも脚光を浴びる一方で、Appleのジョブズの休職、GoogleのCEO交代と大きなニュースが続いた。ICTの世界の物事のスピードを考えれば、顔ぶれがこれだけ長く変わらなかったことがむしろ意外だが、ある種の節目を感じさせるニュースではある。

 ニューズウィーク日本版が、エリック・シュミットから創業者ラリー・ページへのGoogleのCEO交代に関する記事で、ビル・ゲイツの「冷酷さ」について触れている。

 グーグルCEOは「いい人」すぎた?

 http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2011/01/post-1928.php

 ゲイツは今もマイクロソフトの会長にはとどまっているが、経営への直接的な関与からは2008年に離れた。以降、自らが主宰する「ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団(メリンダは夫人の名)」の慈善活動にほぼ専念しているようにみえる。

 経営から退いて以降、ゲイツは「慈善活動家」としてのみアメリカのメディアに登場している。そのテーマ以外の取材は断っているのかもしれないが、メディアの側ももっぱら、鉄鋼王カーネギーや石油王ロックフェラーの系譜に連なる「偉大な創業者の社会貢献」という文脈でゲイツを取り上げる。2005年には妻メリンダ、U2のボノとともに、TIME誌の「パーソン・オブ・ジ・イヤー」に選ばれた。

 3兆円を超える規模の基金を立ち上げ、私費を惜しげもなく投じてエイズや貧困の撲滅のための活動に励むゲイツ夫妻が高く評価されるのはよく理解できる。何より意味があると思うのは、ゲイツがマイクロソフト時代の効率性を重視したマネージメント手法を財団運営に持ち込んでいること、ICTという新しい産業の次代の若い経営者たちのモデルになれればと考えていることだ。

 アメリカの慈善活動の歴史は古く、規模は巨大で、影響は国境を超えている。野口英世はロックフェラーが設立した医学研究所の研究員だったし、ゲイツと仲がいい投資家のジョージ・ソロスは自らの出身である東欧などの民主化に巨額の支援を行ってきた。フィランソロピーの文化は米国のソフトパワーの象徴の一つであり、もっとろくでもないことに金を使っても誰にもとがめられないゲイツがその文化の一翼を担っていることは敬意の対象になってもおかしくない。

 しかし一方で、あの生臭いビル・ゲイツが慈善家としてのみ登場することに、私は違和感が消えない。

 ジョブズがアップルそのものであるように、経営を退いたとはいえ、ゲイツがマイクロソフトという会社そのものであることに変わりはない。輝かしい成功の物語も、その後の迷走や今の退潮も、突きつめればゲイツその人に帰結するはずだ。それが一切語られず、すべてはスティーブ・ボルマーの責任であるかのように説明されてしまうことへの違和感が消えない。

 ゲイツがボルマーにCEOの座を譲ってからの10年間にアップルはiPodとiTunesを生み出し、iPhoneを出し、iPadを世に送り出した。TwitterやFacebookが次々と登場するうねりの中で、ジョブズは(文字通り)命を削ってデジタル時代の地平を切り開こうとし続けてきた。ニューズウィークの記事は、ゲイツのような「冷酷さ」に欠けていたことがGoogleのシュミットがCEOを降りた一因ではないかと指摘している。ゲイツがマイクロソフトに残っていたら、歴史は微妙に変わっていたかもしれない(マイクロソフトにとって良いほうにか悪いほうにかは別にして)。

 ゲイツが戦いから逃避して楽をしている、とはもちろん言えない。しかしゲイツを一切の文脈から外して物事を語るのはまだ少し早い気がする。

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